1782年、日本の近世史上では最大規模の飢饉である、天明の大飢饉が起こる。
【暗記用俳句】 ♪農村の 稲(17-)穂やつ(82)れる 大飢饉
天明の大飢饉とは?
天明の大飢饉は、江戸時代の中期1782年から1788年の6年間にわたって全国的に発生した飢饉(ききん)。
和暦で天明2年に発生したことから、「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」と呼ばれる、
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)は、享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)、天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)と合わせて「江戸時代の三大飢饉」といわれ、日本の近世では最大の飢饉(ききん)とされる。
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)による餓死者(がししゃ)は30万人〜50万人ともいわれ、同時に起こった災害(後述)で亡くなった方の人数を合わせると、100万人を超えるともいわれる。
天明の大飢饉の原因は?
1770年代から、東北地方の悪天候や冷害(れいがい)が続いたことにより、農作物の収穫量(しゅうかくりょう)が減少。
そして、1782年から1783年にかけては暖冬(だんとう)に見舞われ、田畑が乾き、どんどん耕作地が痩(や)せてしまい、大規模な食糧難(しょくりょうなん)が発生。
これが原因で、全国で餓死者(がししゃ)が急増(きゅうぞう)する。
さらに、これに追い打ちをかけるように、1783年に岩木山と浅間山が続けて噴火し、各地に火山灰を降らせた。
田沼意次の政策
天明の大飢饉が起こった当時、10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)の老中(ろうじゅう)として政治改革を取り仕切っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)は、経済発展を目的とした、重商主義(じゅうしょうしゅぎ)を行なっていた。
農業を軽視(けいし)した商業中心の田沼政策は、農民の数を減らして農作物の供給率(きょうきゅうりつ)を下げる結果となった。
そんなときに続けて発生した天災によって、貯(たくわ)えのなかった多くの庶民(しょみん)は飢えに苦しみ、最後には餓死(がし)することになる。
これがきっかけで、田沼意次(たぬまおきつぐ)は1768年に老中を辞任(じにん)することになった。
天明の大飢饉では、なんと、人肉を喰らった人も!
八戸領(はちのへりょう、現在の青森県八戸市)の天明の大飢饉の様子を記録した「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」には、
天明4年、宿屋に1人の女性が訪ねてきて、
「こちらの家で爺(じい)さんが亡くなられたと聞いてやってまいりました。どうか片身(かたみ)とも片股(かたまた)なりともお貸しくださいませんでしょうか?うちの爺さんもせいぜいあと2〜3日かと思われますので、その節にはすぐにお返しに上がりますので」
といったということが記されている。