1858年、日米修好通商条約が結ばれる。関税の自主権がない不平等条約。朝廷の勅許なく調印。
【暗記用俳句】 ♪摩周湖で イヤイヤ(1858)結ぶ 条約だ
日米修好通商条約とは?
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、1858年(安政5年)に日本とアメリカとの間で結ばれた条約。
この条約は、関税の自主権がない、いわゆる不平等条約として知られている。
日米修好通商条約は、外国船に対する燃料等の補給(ほきゅう)など限定的な内容だったが、この条約が結ばれたことで自由貿易(じゆうぼうえき)が始まり、日本の開国が本格的に始まった。
日米修好通商条約は、外国船に対する燃料等の補給(ほきゅう)など限定的な内容だったが、この条約が結ばれたことで自由貿易(じゆうぼうえき)が始まり、日本の開国が本格的に始まった。
しかしながら、この条約が朝廷の勅許(ちょっきょ、許可のこと)なく調印(ちょういん)されたことで、攘夷派(じょういは)などが激しく反発。
大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、これらを抑え込むために、安政の大獄(あんせいのたいごく)と呼ばれる大規模な弾圧を(だんあつ)行なった。
。
経済的にも大混乱が起こり、攘夷(じょうい)・倒幕運動(とうばくうんどう)が激しくなってしまうという影響をももたらした。
大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、これらを抑え込むために、安政の大獄(あんせいのたいごく)と呼ばれる大規模な弾圧を(だんあつ)行なった。
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経済的にも大混乱が起こり、攘夷(じょうい)・倒幕運動(とうばくうんどう)が激しくなってしまうという影響をももたらした。
しかしこの弾圧(だんあつ)は、結局のところ江戸幕府の寿命を短くしてしまうという結果に終わる。
井伊直弼自身も、大獄(たいごく)に反発する水戸藩士に襲撃(しゅうげき)され、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で命を落とすことになる。
井伊直弼自身も、大獄(たいごく)に反発する水戸藩士に襲撃(しゅうげき)され、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で命を落とすことになる。