2023年02月18日

寛政の改革 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

1787年、松平定信が寛政の改革をはじめる。幕藩体制の立て直し、備蓄米。

【暗記用俳句】 ♪寛政の 改革厳しく 否(いな)やな(1787)し

寛政の改革 2コマ漫画

寛政の改革とは?

寛政の改革(かんせいのかいかく)は、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の孫である老中(ろうじゅう)松平定信(まつだいらさだのぶ)主導で行なわれた改革(かいかく)。
寛政の改革の目的は、幕藩体制(ばくはんたいせい)の立て直しだった。

松平定信
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松平定信が老中に就任(しゅうにん)する前は、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)による経済振興(けいざいしんこう)を中心とした政治が行なわれていた。
そのため、地方の農村まで貨幣経済(かへいけいざい)が行きわたり、都市部では華(はな)やかな文化が開花した。
しかし一方、役人の間では賄賂(わいろ)が横行するなど、政治の腐敗(ふはい)も現れた。

また、浅間山の噴火(あさまやまのふんか)や天明の大飢饉(てんめいのだいききん)などにより、全国の百姓の生活は苦しく、打ちこわしや一揆(いっき)が多発していた。

なかでも、幕府に衝撃を与えたのが、天明の打ちこわしだ。
これは、江戸や大坂だけでなく、なんと、全国の30もの都市で起こり、米屋などが襲(おそ)われて被害(ひがい)を受けた。
その結果、田沼派は失脚(しっきゃく)し、徳川吉宗(とくがわよしむね)の孫の松平定信が老中に就任。
名君として知られていた松平定信は、田沼時代の悪習を一掃(いっそう)し、クリーンで統制(とうせい)の取れた幕藩体制(ばくはんたいせい)を取り戻そうとした。

寛政の改革の結果は?

松平定信による寛政の改革は、幕府の体制を整え、財政を立て直すなど、一定の効果をあげた。
災害に備える備蓄米は増加し、幕府の財政危機(ざいせいきき)も脱した。

社倉 義蔵

幕府だけでなく、諸藩(しょはん)でも財政危機を克服(こくふく)すべく、藩政(はんせい)の改革が相次ぎ、効果をあげた。

しかしながら、厳しい倹約(けんやく)や統制(とうせい)を強いられた民衆は、これに反発。

当時、以下のような狂歌(きょうか)が流行することになる。

「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁(にご)りの田沼恋しき」

白河というのは、白河藩主であった松平定信のことだ。
この歌の意味は、

「松平定信の正しいけれど厳しい世の中よりも、濁っている田沼時代が懐かしい」

というものだ。

結局、将軍徳川家斉(とくがわいえなり)との対立も相俟(あいま)って、松平定信は1793年に老中の座を解かれ、寛政の改革は終了する。

「江戸時代の三大改革」の改革名、年代、中心人物の覚え方

スペシャルゴロ合わせコーナー

なお、「享保の改革(きょうほうのかいかく)」「寛政の改革(かんせいのかいかく)」「天保の改革(てんぽうのかいかく)」の3つを合わせて、江戸時代の三大改革という。

江戸時代の三大改革
改革名年代中心人物
1.保の改革1716〜45年徳川
2.政の改革1787〜93年松平
3.保の改革1841〜43年水野

今日は、これらの改革の名前と年代、そして中心人物の3つを、ゴロ合わせ俳句(はいく)に読み込んで一気に覚える方法をご紹介!
が、これだけ情報量(じょうほうりょう)があると、俳句(はいく)ではさすがに無理。(^^;
そこで今回は、短歌(たんか)でGo!。(^^)v

【暗記用短歌】 ♪「共感点(享・寛・天)? 江戸の三大 改革の? 吉定(よしさだ)タダ(忠)で 井戸(16)離(87)れし人(41)」

【覚え方のヒント】 「え? 共感点(きょうかんてん)? 江戸時代の三大改革の? そうだなぁ。結局、金をもらわない限り、井戸のそばから断固(だんこ)として離れないと言っていた吉定(よしさだ)が、タダで井戸から離れてくれただけ。共感点(きょうかんてん)なんて、何もないよ」

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えっ?もしかして、吉定(よしさだ)って、…。
w(゚o゜)w ギョェーッ!


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2021年09月26日

伊勢湾台風上陸 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

1959年、紀伊半島先端に伊勢湾台風が上陸する。

【暗記用俳句】 ♪伊勢湾に 一級(19-)台風 日本「ゴク(59)リ!」

伊勢湾台風とは?

伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号)は、1959年(昭和34年)9月26日に潮岬(しおのみさき)に上陸し、紀伊半島(きいはんとう)から東海地方(とうかいちほう)を中心にほぼ全国にわたって甚大(じんだい)な被害をもたらした台風。
伊勢湾沿岸の愛知県(あいちけん)・三重県(みえけん)での被害が特に大きかったことからこの名称がつけられた。

伊勢湾台風の被害は?

伊勢湾台風の被害は、紀伊半島の和歌山県(わかやまけん)、奈良県(ならけん)、伊勢湾沿岸の三重県、愛知県、日本アルプス寄りの岐阜県(ぎふけん)を中心に犠牲者(ぎせいしゃ)5,098人(死者4,697人、行方不明者401人)・負傷者(ふしょうしゃ)38,921人といわれる。

死者・行方不明者(ゆくえふめいしゃ)の数は5,000人を超え、室戸台風(むろとたいふう)、枕崎台風(まくらざきたいふう)とあわせて昭和の三大台風に挙げられ、戦後に発生した災害の中で、最大の被害規模(ひがいきぼ)となった。

伊勢湾台風による被害は、伊勢湾岸だけに留まらずほぼ全国に及び、山間部(さんかんぶ)では土石流(どせきりゅう)や鉄砲水(てっぽうみず)によって多くの家屋(かおく)が流された。
川沿いでは、河川が氾濫(はんらん)したことにより、多くの家屋(かおく)が浸水(しんすい)したり流されるなどの被害が発生した。

また、伊勢湾台風の被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵(ひってき)し、あの東日本大震災との比較対象に達するものとなり、総被害額は5000億円以上ともいわれる。

posted by Super源さん at 20:29 | Comment(0) | 日本史年表

2019年11月28日

東大寺の大仏完成 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

752年、奈良の東大寺の大仏が完成する。

【暗記用俳句】 ♪東大寺 なご(75-)みに(2)行こう 大仏殿

東大寺の大仏造りはいつ始まった?

743年(天平15年)に、聖武天皇(しょうむてんのう)は大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)を発した。
そして、747年(天平19年)に大仏の鋳造(ちゅうぞう)が始まった。

当時、都は恭仁京(くにきょう、現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや、現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。
聖武天皇は短期間に遷都(せんと)を繰り返したが、2年後の745年(天平17年)に都が平城京(へいじょうきょう)に戻ると、大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行なわれることになった。

752年(天平勝宝4年)に、難工事の末、大仏の鋳造(ちゅうぞう)が終了。
インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ)を導師(どうし)として、東大寺にある大仏開眼会(だいぶつかいげんえ)が行なわれた。
その後、大仏殿の建設工事が始められ、758年(天平宝字2年)に竣工(しゅんこう)した。

なお、東大寺の大仏の正式名称は、「東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)」という。

東大寺の大仏は何故建てられた?

奈良の大仏
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聖武天皇(しょうむてんのう)は、日本各国に国分寺と国分尼寺を、奈良には東大寺を建てた。
さらには、大仏を造った。
その理由は2つある。
ひとつは、当時、地震や日照り(ひでり)といった災害(さいがい)や天然痘(てんねんとう)が蔓延(まんねん)していたこと。
もうひとつは、皇族(こうぞく)・貴族(きぞく)の争いごとが絶えなかったことだ。
平和な世にならないことに苦慮(くりょ)した聖武天皇は、 仏教の力で世の中を救おうと考えたのだ。

大仏造りに活躍した行基

大仏を造るには、たくさんの人手が必要となる。
そこで、聖武天皇が目をつけたのが、僧(そう)・行基(ぎょうき)だ。
行基は、仏教の教えを広めるばかりでなく、貧しい人々に食べ物を与えたり、川に橋をかけたり、日照りに備(そな)えて池を造ったりして、人々のために尽くしていた。
聖武天皇は、そんな行基をいわばリーダーとしてスカウトし、行基はその想(おも)いに応(こた)えた。

つまり、聖武天皇は、民の信頼(しんらい)が厚い行基の力を利用したのだ。
聖武天皇のこの思惑(おもわく)は功(こう)を奏(そう)し、大仏造りの計画は大きく進み始めることになる。

東大寺大仏殿
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なお、東大寺の正倉院(しょうそういん)には、聖武天皇の遺品(いひん)が残されている。
posted by Super源さん at 19:38 | Comment(0) | 日本史年表

2019年11月27日

日米和親条約 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

1854年、日米和親条約が結ばれる。下田(静岡県)、函館(北海道)の2港を開く。

【暗記用俳句】 ♪一夜越し(1854) ワシの条約 締結だ

日米和親条約 2コマ漫画

日米和親条約とは?

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)は、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に、江戸幕府とアメリカ合衆国が締結(ていけつ)した条約。
神奈川条約とも呼ぶ。

日本側全権は林復斎(はやしふくさい、江戸時代末期の儒学者、外交官)で、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。

日米和親条約の内容は?

日米和親条約の第二条には、下田・箱館(はこだて、現在の函館)の2港を開き、アメリカ船に燃料・食糧(しょくりょう)を供給(きょうきゅう)することが書かれており、第三条には、アメリカの難破船(なんぱせん)や乗組員(じょうむいん)を救助することが書かれている。

日米和親条約の交渉
日米和親条約の交渉
出典:https://kknews.cc/history/agex5g.html

この条約によって、日本は下田(しもだ)と箱館を開港し、鎖国体制は終焉(しゅうえん)を迎えた。

posted by Super源さん at 18:56 | Comment(0) | 日本史年表

2019年11月26日

天保の改革 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

1841年、老中水野忠邦が天保の改革をはじめる。幕府財政の再興、藩政改革、綱紀粛正、奢侈禁止。

【暗記用俳句】 ♪天保の 改革初めは(18−) よい(41)テンポ
天保の改革 2コ漫画

天保の改革とは?

天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)に行なわれた改革で、享保の改革(きょうほうのかいかく)、寛政の改革(かんせいのかいかく)に並び、江戸時代の三大改革の1つに数えられる。
貨幣経済(かへいけいざい)の発達に伴って逼迫(ひっぱく)した幕府財政の再興(さいこう)を目的とした。
また、この時期には諸藩(しょはん)でも藩政改革(はんせいかいかく)が行なわれた。

天保年間には、全国的な凶作(きょうさく)による米価・物価高騰(ぶっかこうとう)や天保の大飢饉(だいききん)、百姓一揆(ひゃくしょういっき)や都市への下層民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国(かいのくに)における天保騒動や三河加茂一揆(みかわかもいっき)、翌天保8年には大坂での大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)などの国内事情に加え、阿片戦争(あへんせんそう)やモリソン号事件など対外的事件も含め、幕政(ばくせい)を揺るがす事件が発生していた。

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天保12年(1841年)に大御所家斉(いえなり)が薨去(こうきょ)し、水野忠邦(みずのただくに)は林・水野忠篤(みずのただあつ)・美濃部(みのべ)ら西丸派や大奥に対する粛清(しゅくせい)を行なって人材を刷新(さっしん)し、農本思想基本とした天保の改革(てんぽうのかいかく)が開始される。

同年5月15日、将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意(しゅい)に基づく幕政改革の上意(じょうい)を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正(こうきしゅくせい)と奢侈禁止(しゃたきんし)を命じた。
この改革は、江戸町奉行の遠山景元(とおやまかげもと)・矢部定謙(やべさだのり)を通じて江戸市中にも布告(ふこく)され、華美(かび)な祭礼(さいれい)や贅沢(ぜいたく)・奢侈(しゃし)はことごとく禁止された。

天保の改革の結果は?

天保の改革が行なわれた頃は、既に幕府の権威(けんい)は低下してきていた。
これに加えて、財政のみならず、行政面(ぎょうせいめん)などの問題点も多かった。
そのため、大奥(おおおく)の改革への妨害があり、結果的に改革が煩雑(はんざつ)となってしまい、社会を混乱に導き、失敗と判断された。

さらには、水野失脚後に株仲間が再興(さいこう)されたことで、幕府の権力が商業資本の前に自己の政策を成し遂げることができなかったという、幕藩体制にとっては悪しき先例を残す結果となった。
posted by Super源さん at 18:37 | Comment(0) | 日本史年表

2019年11月25日

遣唐使の停止 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

894年、菅原道真の意見により遣唐使を停止する。

【暗記用俳句】 ♪検討し 白紙(894)に戻す 遣唐使

遣唐使の停止 2コマ漫画

遣唐使は、630年から894年の約250年の間に19回任命され、そのうち15回実施された。そして、遣唐使がもたらした情報は、奈良時代から平安時代の初期に、日本の政治・社会・文化に対する大きな刺激となった。その間、日本は漢文化を受容(じゅよう)して貴族文化を形成したが、9世紀後半になると、黄巣の乱が起きて唐は衰退、日本の律令政府(りつりょうせいふ)にとっても遣唐使を派遣することが負担となってきた。
そこで、宇多天皇のときに、遣唐使に任命された菅原道真が遣唐使の停止を進言し、その結果、894年をもって停止されることとなった。

実は、894年に遣唐使は停止されていない?

実は、894年に何故遣唐使が停止されたのか、そのはっきりした理由は良く分かっていない。それどころか、学校で習う(このページでも取り上げている)「894年 遣唐使停止」というのも、厳密には違う可能性がある。

984年、日本では遣唐使の派遣を計画していて、確かにその計画は中止された。そして、その時の代表者が菅原道真(すがわらのみちざね)であり、中止を提案したのも菅原道真である。ここまでは確かだが、中止後も菅原道真の大使としての任は解かれなかった。ということは、中止は一時的なもので、894年時点では遣唐使自体は停止にまで至っていなかった可能性がある。

大使であった菅原道真は、901年に藤原時平(ふじわらのときひら)との政争(せいそう)に敗れ、大宰府(だざいふ)へ左遷(させん)されるが、同時に遣唐使の大使という任も自然消滅してしまう。そして、その後大使として任命される人物も登場せず、遣唐使の派遣計画も自然消滅してしまった。
つまり、「遣唐使は停止する!」と誰かがきっぱりと決めたわけではなく、自然と派遣計画が消滅していったため、何故停止されたのか、いつ停止されたのか、明確に分かっていないのである。

posted by Super源さん at 18:47 | Comment(0) | 日本史年表

2019年11月23日

勘合(日明)貿易 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

1404年、明と勘合貿易をはじめる。勘合符を持った船だけが許される合法的日明貿易。

【暗記用俳句】 ♪看護する 人シマシ(1404)マの シャツを着せ

勘合(日明)貿易 2コマ漫画

勘合貿易とは?

勘合貿易(かんごうぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝(みんちょう)と行なった貿易。
特に、室町幕府(むろまちばくふ)や大内氏(おおうちうじ、中国地方西部の守護大名(しゅごだいみょう))との朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)は、倭寇(わこう)などの密貿易(みつぼうえき)と区別して正式な遣明船(けんみんせん)であることが確認できるように勘合(勘合符)を使用したことからその名がある。

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勘合貿易は、日明貿易(にちみんぼうえき)ともいう。

勘合貿易をした理由は?

室町幕府(むろまちばくふ)3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)は、博多商人肥富(こいとみ)より対明貿易(たいみんぼうえき)が莫大(ばくだい)な利益(りえき)を生むことを聞いていた。
義満(よしみつ)は、1401年(応永8年)に、肥富(こいとみ)と僧・祖阿(そあ)を明へ遣明使として派遣し、彼らは翌年に明の国書を持ち帰国する。
明使の在日中に靖難の変(せいなんのへん)で永楽帝(えいらくてい)が即位すると、明は再び国書を送り、日本と明の間に国交と通商の合意が成立した。

勘合貿易は、いつ始まりいつ終わった?

勘合貿易は、1401年(応永8年)から1549年(天文18年)まで、19回にわたって行なわれ、この貿易で使用する勘合には「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した。
また、制限貿易で日本→明は「本字勘合」、明→日本は「日字勘合」が使用された。
posted by Super源さん at 10:54 | Comment(0) | 日本史年表

2019年11月22日

平安京遷都 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

794年、桓武天皇が都を平安京に移す。

【暗記用俳句】 ♪平安京 うぐいす鳴く世(794) 平和な世

平安京遷都 2コマ漫画

平安京とは?

平安京(へいあんきょう、たいらのみやこ)は、かつて日本の首都だった都市である。

桓武天皇(かんむてんのう)によって、長岡京(ながおかきょう)からの遷都地(せんとち)に選ばれ、唐の首都長安城(ちょうあんじょう)にならって計画都市として山城国(やましろのくに)に建設された。
そして、この場所に平安時代から明治時代初めまで、歴代(れきだい)の皇の皇居(こうきょ)が置かれた。
平安京は、現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路(がいろ)は今もほぼそのまま残っている。


平安京は、関東地方を基盤(きばん)とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって、行政府(ぎょうせいふ)としての機能(きのう)を次第に失っていった。
特に、室町時代から戦国時代にかけての時期は、応仁の乱(おうにんのらん)にて市街地の過半を焼失して衰退(すいたい)した。
その後、平安京の市街地(しがいち)は、上京と下京に分かれて小規模なものとなっていき、これが再び一体の市街として復興(ふっこう)に向かうのは安土桃山時代(あずちももやまじだい)であり、織田信長(おだのぶなが)の上洛(じょうらく)後のこととなる。

平城京から平安京へ遷都されたのは何故?

首都が、平城京(へいじょうきょう)から平安京(へいあんきょう)へ遷都(せんと)されたのは何故かという理由については2つある。

1.仏教勢力(ぶっきょうせいりょく)が強く政治と結びつくようになっていた平城京から逃(のが)れるため
2.奈良の都が政治的理由で暗殺(あんさつ)された人たちの怨霊(おんりょう)で溢(あふ)れてしまったため

現在は、後者が有力となっている。
posted by Super源さん at 18:36 | Comment(0) | 日本史年表

2019年11月21日

応仁の乱 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

1467年、応仁の乱が起こる。

【暗記用俳句】 ♪応仁の 乱で京焼け 人世(ひとよ)虚(1467)し

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応仁の乱とは?

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の1467年(応仁元年)に起こり、1478年(文明9年)までの約11年間にわたって続いた内乱(ないらん)。
応仁の乱で、主要な戦場となった京都全域は、壊滅的(かいめつてき)な被害を受けて荒廃(こうはい)した。
すべての地域ば焼失(しょうしつ)し、激戦地(げきせんち)となった相国寺(しょうこくじ)、天龍寺(てんりゅうじ)・清水寺(きよみずでら)などは全焼(ぜんしょう)した。

応仁の乱の原因は?

応仁の乱
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応仁の乱の原因は、もともとは有力守護大名であった畠山家(はたけやまけ)の家督争い(かとくあらそい)だった。
が、そこに将軍家のお世継ぎ問題や細川家と山名家の権力争いが加わったことで、一気に複雑化した。
畠山家のお家騒動
畠山家で、畠山持国(はたけやまもちくに)がいきなり跡継ぎを畠山持富(はたけやまもちとみ)から畠山義就(はたけたまよしなり)に変更したことで、お家騒動が勃発(ぼっはつ)した。
将軍足利義政(あしかがよしまさ)は、畠山義就(はたけやまよしなり)を支持していたのだが、細川勝元(ほそかわかつもと)が持富の家系の方を優先して最終的に畠山政長(はたけやままさなが)を畠山家の当主(とうしゅ)にさせてしまう。

もちろん、義就(よしなり)からすれば、これは納得できないことだ。
義就は、当時細川勝元と仲が悪くなっていた山名宗全(やまなそうぜん)に接近し、文正の政変(ぶんしょうのせいへん)のどさくさに紛れ、なんとか畠山家の当主に返り咲いた。
そのためいつしか、義就(よしなり)は山名宗全側、政長(まさなが)は細川勝元側につくことになり、この畠山家の争いが、応仁の乱の導火線(どうかせん)となった。
将軍家の後継者争い
室町幕府8代目将軍・足利義政(あしかがよしまさ)とその正室(せいしつ)・日野富子(ひのとみこ)は、子宝(こだから)に恵まれなかった。
後継者となるお世継ぎがいなければ、室町幕府は滅亡(めつぼう)してしまう。

そこで足利義正は、出家(しゅっけ)していた弟・義視(よしみ)を養子(ようし)として迎え、後継者(こうけいしゃ)にすることを決めた。

これで問題は解決したかに見えたが、寛正6年(1465年)に義政と富子の間に息子・義尚(よしひさ)が生まれたことで事態は一変する。
富子は、息子義尚(よしひさ)に跡継ぎを譲ることを望み、義政も「義尚を9代目将軍とする」と、お世継ぎの変更を申し出る。

こうなると当然、それまで跡継ぎとされていた義視(よしみ)はこれに反対する。
かくして、将軍家は「義視派」と「義尚派」の2派に分かれて、応仁の乱へと発展していく。

応仁の乱の結果は?

応仁の乱による11年間にわたる戦いは、両軍ボロボロの状態で引き分けに終わった。
しかしながら、主要な戦場となった京都全域は、壊滅的(かいめつてき)な被害を受けて荒廃(こうはい)した。

まず、応仁の乱によって、上京区を始めすべての地域ば焼失(しょうしつ)した。
花の御所はおろか、天皇がお住まいになっている御所も燃えてしまい、天皇が一時避難を余儀(よぎ)なくされた。

さらには、戦いの激戦地(げきせんち)となった相国寺(しょうこくじ)を始めとして、天龍寺(てんりゅうじ)・清水寺(きよみずでら)・伏見稲荷大社(ふしみいなりじんじゃ)・金閣(きんかく)・仁和寺(にんなじ)などは全焼(ぜんしょう)。
京都の街は、兵士たちの略奪行為(りゃくだつこうい)によって、公家(くげ)や町人たちが京都から脱出するほど悲惨な状態だったという。
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2019年11月20日

日中戦争 - 今日のゴロ合わせ俳句年表

1937年、盧溝橋(ろこうきょう)事件が発生し、日中戦争となった。

【暗記用俳句】 ♪日中戦 行く皆(1937)ドームで 熱中戦

日中戦争 2コマ漫画

日中争とは?

日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国と中華民国の間で行なわれた戦争である。
当時の近衛内閣は、この戦争の呼び名を「支那事変(しなじへん)」と閣議決定した。戦争ではなく「事変」としたのは、盧溝橋事件後の本格的な戦闘が行なわれても、1941年12月に太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)するまで、両国は宣戦布告をおこなわなかったためである。

日中戦争の原因から停戦までのあらまし

1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯(ちゅうとん)していた日本軍の夜間演習中に実弾が2度発射され、日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発した。7月8日、蒋介石(しょうかいせき)は日記に「倭冦の挑発に対して応戦すべき」と書き、7月9日に動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。7月19日までに北支周辺に30個師団、総兵力20万人を配備した。

ノモンハンへ進軍する日本兵

7月11日、日中の現地軍どうしで停戦協定が締結され、中華民国側は遺憾の意思を表明し、責任者を処分すること、盧溝橋付近には中国軍にかわって保安隊が駐留すること、事件は藍衣社、中国共産党など抗日団体が指導したとみられるため今後取り締るという内容の停戦協定が締結された。

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